第225回佐保カルチャー

   「奈良には古き仏たち(2)」ー唐招提寺の仏たちーを開催しました。

           講師:奈良国立博物館名誉館員 鈴木喜博氏

 

 昨年3月、新薬師寺で行われて好評だった仏像シリーズの2回目、前日までの好天が、この日は打って変わって氷雨の降る悪天候になりましたが、学生や会員の夫・イギリス人も含む多彩な顔ぶれの参加者44名は、重要文化財の東室(ひがしむろ)で、鈴木氏の講演に、熱心に耳を傾けました。

 鑑真和上は6回目の渡海で薩摩に上陸。平城京で聖武太上天皇以下多くの人々に戒を授けた後、故新田部(にたべ)親王邸宅跡を賜り、平城宮朝集殿を移築して講堂としたのが唐招提寺の始まりです。鑑真は中国から戒律や経典だけでなく仏師も伴ってきました。彼らがなした仕事は、のちの日本仏教文化に大きな影響を与えています。金堂にある国宝の乾漆廬舎那仏の目尻、眉尻、頬の広さ、頭の大きさ、膝の厚さは、薬師寺にあるブロンズの薬師如来と比較すると、後者は古典的な形式美を作り出しているのに対し、前者はそれを打ち破る中国の石像にも似た、大陸的で気宇壮大な造形を見せています。

 新宝蔵には、カヤの一木造りの木彫仏が何体か保存されています。美しい衣紋の姿から、膝がどの辺りにあるか想像してみるのも仏像の楽しい見方だそうです。膝頭が真中にあるのが奈良時代、下が平安、鎌倉時代には、また真中にくるそうです。そのお堂にどれだけの威があるか、見るものにどれだけの力を与えるかを当時の仏師はいろいろな工夫を凝らして仏を作ったのです。

 鑑真自身は、唐招提寺に移ってわずか10年で亡くなり、金堂の完成や廬舎那仏を見ることはありませんでした。のちに中国人の義静(ぎじょう)、ペルシャ人の如宝(にょほう)が引継ぎ、私たちの眺めている唐招提寺の根幹を完成しています。このような歴史的背景のもとで一つ一つの仏像を眺めると、今までとは違った趣で仏さまと向き合うことができました。